語り

空想倫理青年

極論すれば、エドワードさんアルフォンスプラトンアリストテレスに例えられると思う。



プラトンなエドワードさん:理想主義者(イデア論)

【プラトンによると、イデアとは永遠不変なる完全な真実在で、事物・価値の理想的な原型である。
そして、私達が普段見ている物はそのイデアが投影された仮想にすぎず、そのものの本質はあくまでイデア界に存在する。
つまり、
イデア=本物
現実に見ているもの=コピー
人間の魂はかつてイデア界に住み、そこでイデアを見ていた。
今ここにいる私達は、肉体をもってイデア界から現象界へ降りてきたのだ。
だから、イデア界のコピーである現象界のものを見ると、私達はそこからイデア界に憧れ、イデア界を想起する。】

万人への説明としてはとても不親切な表現だけれど、これを金髪金瞳の例の人になぞらえて考えてみるとわかりやすくなる(のかな)と思う。


アルフォンスは現実世界にいる人。
アルフォンスは実の弟に良く似ている。
まるでコピーのようだ。
そう、きっと彼は架空ないし夢の中の存在にすぎないんだろう。
本物の弟は自分の頭の中、そして多分錬金術世界にいる。
自分もかつては錬金術世界にいて、その弟を見ていた。魂を。本質を。
そして、現実世界にいる弟の模倣を通して、錬金術世界にいる弟を想起する。
そうして思い起こした弟の姿は、自分が思い描く姿だから永遠に変わる事なく、その時点で理想とともに完成されている。
しかし現実世界において接しているアルフォンスは、自然と成長もするし次第に移り変わってゆく不完全な存在だ。
いわばエドワードにとって、アルフォンス・ハイデリヒはアルフォンス・エルリックというイデアを分有したアルフォンス・エルリックの模倣であった。



アリストテレスなアルフォンス:現実主義者(反イデア論)

【プラトンが天に真実(イデア)を求めたのに対し、アリストテレスは真実在は個々の事物に内在していると考えた。つまり、物の本質はその物の「内」に存在しているという事。すなわち理想は現実の世界の中で実現されるということだ】


アルフォンスは自分が夢の中の存在ではなく、確かにここ(現実)にいるのだと言った。
アルフォンスは現実に生きる人だった。
それゆえ、エドワードの言う錬金術世界の話も信じなかった。
アルフォンスは現実に理想を求めた。
だからロケットという理想を現実において追い求め、その中に自分の証を残そうとした。
そしてある時、彼は気づく。
エドワードが夢を諦め、心底落胆している理由を。
そもそもその夢が叶えられない原因を。
エドワードにとって、ここは現実ではない。
現実以外の場所で理想は実現されようがない。
そして、エドワードの理想が本当は何であるかもちゃんとわかったいた。
だから、エドワードがちゃんとその理想を叶えられるように、エドワードにとっての現実=錬金術世界に送り出したのだ。



本物を連れてきたから、コピーはいらなくなって消えてしまった。
彼がここを飛び立ってすぐに。





夢? 地獄?
夢はきっと希望であると僕は信じています。
夢は空想だと言うあなたへ。


愛してる。


せめて、この世界があなたにとっての理想であった事を……


今度は僕が弟さんのイデアです。

「認識」による世界(コミックス未収録分のネタバレを含みます。ご注意下さい)

以下、引用。

「人間性」とは感情移入される能力のことであり、感情移入「する」能力ではない。
ほとんどすべてのヒト(ホモサピエンス)が人間であるのは多くの人々に感情移入されているからである。ヒトでであるだけでまずヒトは感情移入され、人間となる。
しかし、人間はヒトに限られるわけではない。感情移入されれば人間になるのだから、ぬいぐるみだって人間でありうるのである。

そう、ピエロちゃん()は人間だった。私が人間にしたのである。「した」と言う言い方は傲慢だ。言い換えると、ピエロちゃんは私にとって人間として存在していた。

<中略>

私がピエロちゃんが人間であることを忘れてしまったら、ピエロちゃんはきたない布切れで構成されたくたびれたピエロのぬいぐるみに過ぎなくなってしまう。それは人殺しだと私は思っていた。私がピエロちゃんをどこかに置き去りにしてしまったらピエロちゃんを見た人間は誰一人ピエロちゃんを人間だと思わないだろう。忘れもののぬいぐるみだと思って捨ててしまうかもしれない。

そして実際私はピエロちゃんを忘れ、ピエロちゃんはどこかにいってしまった。
ピエロちゃんはいつのまにか捨てられた。殺された。
違う。私が、ピエロちゃんを、殺した。

二階堂氏が所持していたぬいぐるみ

【二階堂奥歯『八本脚の蝶』ポプラ社 H18.1】 WEB上のログ


アルは、人間である。
兄を始め、まわりの者から人間として感情移入されているからだ。
しかし、もし私の目の前に中身が空っぽで魂だけが存在する鎧が突然現れたとして、私はそれを人間と呼べる自信はない。
私がアルを人間としているのは、「人間として感情移入されているアル」に私が感情移入しているからである。

エドがスライサー兄弟と対峙した時、彼らにとどめを刺す事をエドは「殺し」と言い、スライサー兄弟自身は「破壊」だと言った。
「物」に対する「破壊」、それは当然正しい。
生き物でないものをそこなう行為は、壊す事である。
しかし、一度対象を「人間」として認識してしまったら、「殺し」の道は逃れられない、と思う。
「物」として破壊したとしても、「人間」と認めることをやめてしまった時点で殺すことになるからだ。
だから、荒川先生はその役を他のものに与えたのではないか。
少年漫画の主人公として、同年代の読者が一番に自己を投影するであろう対象のエドに殺しはさせない。

では、第53話でクセルクセス人の魂を使った時はどうだろう。
あそこでもやはりエドは割り切れずにいる。
あれは、殺しに入るのだろうか。
私の考えで、答えは、否。
エドの中で、確かにあの魂は人間であった。
しかし、エドが人間としていたものは既に朽ち果てていたのだ。
彼らに対する感情移入が絶たれたわけではなく、その対象がもう失われていただけであると言えるのではないか。
そして、彼があの時つかったのは、彼に「エネルギー」として新たに感情移入された別のものである。
と、言い切ってしまいたいところなのだけれど、実際それがそんなに簡単な問題ではない事もまた荒川先生は作品の中であらわしている。
3月号56話で、ベランダを直してあげた女の人に言われた「ありがとう」を思わず重ねてしまうところ。エドを迷わせる事によって、読者である私達にもあれをどう捉えるか、という事を投げかけている気がする。

この(我々にとっての)世界は、「認識」によって形成されていると思う。
人間に限らず、ものの価値においてもそうだ。
ダイヤモンドにあれだけ高価な値がつくのはなぜか。
それは、私達が「めったに取れないものは貴重である」として、その価値を位置づけているからである。
初めからダイヤモンドに価値というものが存在していたわけではない。
最初にあったのは、その「存在」そのものだけだ。
それはこの世の全てにおいて同じ。
この世の物質はただ「存在」して、まわりの認識、感情移入によって様々に変化する。
本や漫画も、誰かに読まれて初めて完成するのだろう。

「鋼の錬金術師」には命、戦争、絆、一言では言い尽くせないほど様々なテーマが盛り込まれているけれど、その中でも自然と大きな問いかけの一つになっているのがこの「認識」の問題だと思う。魂だけのアルや人造人間、化け物とも人間とも区別のつけがたいホーエンハイムやお父様など、鋼には必然的にまわりからの「認識」が重要になるキャラが非常に多い。

人を人とも思わないような事件が相次ぐようになった、今の社会。
鋼から受けるそれらのメッセージは、まさにそんな私達の心に突き刺さると思った。

ハイデネタ祭りにのっとってふと思い出した事

忙しさのレールから逆送するようにやたらと更新しまくる私、一体どうした。
昨日今日と散々ハイデリヒについて語ったところで、ふと思い出した事があったので書いてみます。

そういえば、私の本名のドイツ語訳がハイデ。
ハイデは花の名前ですが、私が生まれた当時ドイツのリューネブルクに住んでいた両親が、その花が一面に咲く自然公園「リューネブルガー・ハイデ」から名づけました。

L&uuml;neburger Heide
ドイツのリューネブルクの南方に広がる広大な自然保護地区。
参考:リューネブルガー・ハイデ ◆ 8月26日(木) 
 旅行記です。とても綺麗な写真つきで紹介されています。


ハイデ
ツツジ科エリカ属植物、英語名ヒース(heath)。
原産:ヨーロッパ西部・イギリス・南アフリカ
花言葉:「博愛」「孤独」(←ハイデさん!?ぎゃーっなんだかぴったりですよ……!) 他に「裏切り」という意味も。

今思うと、私の家族や生活にもだいぶドイツで過ごしていた時の名残があるのかも。
(物心つく前に日本にきてしまったので私自身の記憶はもう曖昧ですが)
食器や家具、近所のおばさんに教えてもらったアッフェルクーヘン(すっごく美味しい!)とか。
英語を一生懸命勉強しているくせに、母がとっさに口にするのはいつもドイツ語だったり。
そういえば何気に文通も続いてるみたいです。

こんな事もあって、劇場版の舞台がドイツである事にどこか特別な思い入れを感じますv
以上、結局鋼に関係してるのかしてないのかわからない独りメモでした。
そろそろまじめな感想に戻ります。
(何気に劇場版DVDのレビューが残ってる…!はやくかきたい)

どこまでもハイデリヒ(惜しげもなくこんなネタばかりですみません)

今、アニメ誌のバックナンバーが猛烈に読みたいです。
特に昨年の3月~夏あたり。
なぜかというと、映画公開前の監督のコメントやハイデさんの前情報(←こっちが本望/笑)がたくさん載っている(と思われる)から。
あの頃、映画を見る前に内容を知りすぎてしまうのが嫌で、雑誌やネットなど全ての情報をできる限りシャットアウトしていました。
当然、ハイデさんについてなんてほとんど知りませんでした。(病弱とかぐらい)
映画を見た後も、「なんとなく予感はしてたけどまさか殺されるなんて……(ちょっと悲しい)」「出会いとか見てみたかったなー」とは思いつつもそれほど彼という存在は私の中に強くは残りませんでした。(ごめんなさい)
ハイデリヒの命日でさえ、あちこちのサイトで追悼記念催しがあった事も知らず(というか命日だという事もネットで見て思い出した)、「ああそうか彼は今日旅立って行ったのか……」としばし思いを馳せる程度で。
そう、実は本当にごくごく最近まで、私はアルフォンス・ハイデリヒを全く気にかけていないどころか彼についてほとんど何も知らなかったのです。
が。
数々のサイトで展開されていたというその追悼企画が素晴らしいと聞いたので、翌日ちょっと覗いて見る事に。
そして。
私は、出会ってしまった。
素敵ハイエドサイト様に、次々と!
さらに、知ってしまった。

ハイデリヒとエドワードってこんなに切ない関係だったのか……!!!

それまでハイエドというCPに対してほとんど無知であった私には、「ハイデリヒはエドワードに弟を通してしか自身を見てもらえない」という彼らにおけるいわば基本中の基本である設定に気づく事もなく、さらにはその「絶対報われない恋」という痛切なテーマは驚くほど私の胸を打ったのでした。
それからというもの、私の中でのハイデリヒバロメーターが急上昇。
一時はそれまで唯一無二だった兄弟萌えを忘れるほどサイト巡りに没頭し、妄想が泥水のように溢れ出ます。(濁っているのは私の脳が腐ってるから/そんな中でもハイデさんは綺麗に澄んでました)
なんなんだ、なんなんだこれは!
その波に乗り始めたのが彼の命日の翌日。
私は一日遅かった事を大いに悔やみます。
企画が一日限定のサイトもあったのに!何より彼の命日をその日にお祈りできなかった!
ぐあああ何たる失態!
私の中ではもはや常となっている「あとからハマる癖」がここでも働きました。
そういえば、エドとの同居はハイデさんから持ちかけたという事も最近知った事。
お父さんがいなくなっちゃってその日は雨も降ってて行くあてなくて、どうしようもないからハイデさんのところに来て「悪ィ、泊めてくれ」とか言ってごろにゃんと転がり込んだのだと思ってた(だってそう言ってたし)←嘘。転がり込んだしか言ってません※

そんなわけで、私は今かつて私の知らないところで着々と繰り広げられていたハイエド妄想の根源である当時のアニメ誌が読みたくて仕方ないのです。
いつの間にかハイデリヒ語りになってしまいましたが、他にもアニメディアで監督が毎月出されていた映画のキーワードとその解説とか、未だ拾えていない情報を色々知りたいです。なんというか、自分がまだ触れていない情報があると思うとそれがすごく気になります。
バックナンバー……注文しようかな。

劇場版での兄弟とハイデリヒの位置づけ、二次創作への影響

※追記:記事中でリンクを貼っておりましたサイト様について不具合をご指摘いただきましたので、修正して再度投稿致しました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ありがとうございました。

そろそろ原稿作業(ここオレ新刊)に本腰入れないとまずい感じ。
書きたいエピソードは山程あるのに一つ一つが断片的過ぎて物語としてまとまらない。
テーマが映画後の兄弟なんですが今更ながら兄弟話って思ったより難しいです。
頭に流れる妄想の量はハイエドと同じくらいなのに、ハイエドの方が遥かに作品として形にしやすい。(あくまで私の場合は)
ではなぜそうなのかと考えた時、二次創作においての根本的な意義のようなものに行きあたりました。
そもそも私達が同人誌や版権サイトを閲覧する目的は、オフィシャルでは語られていない部分への補完、自己満足。
そしてその根源は自身の勝手極まりない妄想、願望。
「補完」とは足りないからするのであり、「願望」は叶っていないから生まれる。
劇中、彼らはまともな会話をするどころかハイデリヒの登場シーン自体あまりに少ない。
鋼に関してほとんど何も知識がないまま見た人にとって、おそらくアルフォンス・ハイデリヒというキャラはエドの同居人同然にしか映らなかったかもしれないが、「弟に似ている」という設定とそれが意味する重大性を深く知っている同人女子(特に兄弟派の人)にとって、彼の存在を放置しておくわけには行かない。
ましてや公開前に様々な情報誌で「エドが錬金術世界の話ばかりする事に寂しさを感じている(うろ覚え)」「病弱」「(アフレコ公開で)アルフォンス、俺が邪魔なのか云々」などという、いかにも「妄想してくれ」と言わんばかりの前情報を垂れ流しにされては、頭に駆け巡った想像を整理するだけで本の一冊や二冊できてしまうのも無理はないだろう。
基礎設定が持つ力の大きさと、劇中での彼のあまりに痛切な役柄と結末に、「少しでもアルフォンス・ハイデリヒに救いを」という気持ちが最終的に我々を二次創作への欲求へと駆り立てるのだ。
そうした点から考えて、ハイエドは「補完」の面でも「願望」の面でもその目的、理由共に十分満たしている。
では、エルリック兄弟はどうか。
率直に申し上げて、彼らの世界は彼ら自身によって完結されてしまった!
兄弟共にお互い寝言で相手の名前をつぶやく、鎧アルに再会した時のあの喜びっぷり、ちゃっかり頭を持ち帰る兄、アルは兄のコスプレ(というとなぜか凄く笑える)してハイデリヒ視点からの夢まで見て、しまいには鎧に潜り込んできた上で「一緒に居たかったんだ(今『痛かったんだ』と誤変換されて妙に現実味があったのが可笑しい)」「なんとかなるよ、二人なら」「ここで俺達は生きていく」、更には追い討ちをかけるようにCharada!にて監督がおっしゃった「なぜアルがあんなに兄が好きなのかはわからない」発言。
……一体これのどこにこれ以上の補完の余地がありま す か。

私がいつも愛読しているサークル様の本で、映画後の兄弟を独自の世界観をもって見事に描き上げていた方がいらっしゃったのですが、つまり公式においてもしっかり相思相愛(!)が公認されてしまっている兄弟を二次創作するにあたっては、先ほど私が冒頭で述べたように断片的で勝手気ままな妄想に終わるか、そこからめいっぱい練り上げられたストーリーを形にして表現するか、どちらかなのです。
ハイエドが足りない部分の補完ならば、兄弟は完成されたものへの付加。
それが二つのカップリングにおける「妄想」の意味の違い。
真っ黒な壁を白いペンキで白くするのは簡単でその変化も明確、一方最初から真っ白な壁を更に白くするには一工夫必要な上にあまり目立った違いはない、そんな感じ。

ああ、結局自分の力量不足と言ってしまえばそれまでなのだけれど。
(てゆうか一番の原因はそれだよたぶん/笑)

そんな風に悶々と考えていると、改めてオフィシャルの力って凄いなと思う。
いくらどんなに多くのファンの間で「あのキャラはきっとこうに違いない」と位置づけられていたとしても、公式で言及がない限りそれはあくまで私達の中にある「仮の姿」に過ぎない。
そして可笑しな事に、オフィシャルであってもアニメキャラという時点でもともとは現実に存在しない、同じ誰かが作り出した「仮の姿」なのだから公式も妄想もくそもないと言えばそうなのですが。
キャラクターって面白いなあ。誰が考えたんだろ。

以上、映画後兄弟話って難しい!と思ってのつぶやきでした(ずいぶんながいつぶやき)
こんな事かいてるひまあったら原稿進めろ!



livedoor プロフィール
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ